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「犬の肉球ブログ(連載中)」
【蓮編】 一 行方

犬の肉球ブログ 蓮編一 行方 第一話

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※本作には一部に性表現、暴力表現が含まれています。予めご了承ください。

第二部 蓮編
一 行方 第一話

     *

 何も感じない。
 何も考えない。
 何も認めない。

 どのくらいの時間が経過したのか。今は何月何日の何時何分なのだろうか。
 閉め切られた部屋の中は暗いが、僅かな隙間から陽の光が差し込んで、辛うじて様子を窺うことができる。体をよじり、陸にあがった魚のように床の上で暴れてみても、埃が舞い上がって視界が霞むだけだった。

 固く縛られた両手と両足の指先には、もう感覚がない。引っ越し用の荷造りテープでぐるぐる巻きに封じられた口は、言葉も声も使えず、ただ喉元から小さく低く音が漏れるだけだった。
 とても息苦しい。孔の片方がほとんど塞がってしまっている鼻だけでは、苦しさが止まらない。酸欠をどうにかしようと、自分の意志とは無関係に呼吸は荒くなり、無駄に体力だけが消耗していく。

 されるがままにして、こうなったわけではない。まだ気力のあるうちは何度か抵抗を試みた。その都度、頭を、顔を殴られ、腹を蹴られた。今も頭と腹には鈍い痛みがまとわりついている。血が固まり、左の鼻孔を詰まらせている。

 気持ちが折れてしまったのは、我慢しきれなくなって、漏らしてしまってからだ。必死になって耐え続けていたが、とうとう限界を超えてしまった。全身に込められていた力が一瞬のうちに消滅し、もう二度と戻ってこないような気がした。
 自らの汚物に塗れた自分の下半身を見たとき、頭の中で何か大切なものが音をたてて崩れていったと思った。緊張も意地も失い、もうどうにでもなってしまえ、という気持ちになっていった。

 あいつはいつも不意に現れる。いつ来るか、予想できない。
 やって来ると、口に巻かれたテープを剥がし、間髪を容れずに食べ物を無理やり押し込む。そして何かわけのわからないことを語りながら、犯す。犯しては去っていく。
 犯されるたびに、不浄が体の中に入り込み掻き乱しては壊していく。何かが一つずつ千切れるような音がして、感覚も感情も少しずつ欠落していくような感じがする。

 時折、寒さで体が引き攣る。衣服をむしり取られ、何も着けていない下半身から冷気が入り込み、全身を蝕んでいる。だるい。重い。このままではそのうち凍死してしまうかもしれない。
 それでも相変わらず息だけが荒い。酸欠のせいなのか、今の状況に絶望してなのか、意識は不明瞭で、何がどうなろうと構わないという気分なのに、なんで体は生きようとしているのかが不思議だった。


 どのくらいの時間が経過したのか。
 扉の隙間から差し込んでいる光が、さっき見たときとはずいぶん違う角度になっていた。いくぶん赤みがかったそれが、部屋の隅を照らしている。そこには丸まった紙屑のようにくしゃくしゃになったジーンズが打ち捨ててあった。何日か前までは、自分が穿いていたものだと、すぐに理解できた。
 ああ、そんなところにあったのかと、特段の感慨もなく、見るともなしに視界に収めていた。

 しばらくすると、光の角度はさらに少しだけ変わり、ジーンズのポケットから何かが半分くらいはみ出していることに気づいた。手足の自由が利かない体で、芋虫のように這いずって近づいた。
 それを確認した途端、感情が溢れてきた。もう失われていたとばかり思っていたのに、まだこんなにいっぱい残っていたことに驚いた。零れ落ちた涙が、安産祈願の四字を形作る少し汚れた刺繍糸に染み込んでいく。
 体の向きを変え、位置を調整して、後ろ手に縛られた両手で御守りを固く握りしめた。

 あいつが現れた。
 両手に込める力が一層強くなった。あいつから隠すように、壁を背に起き上がり、正面を向き膝を立てるように身構えて、睨みつける。今、自分にできる最大の抵抗姿勢だったが、あいつにたじろぐような気配はなかった。

「今日はいつになく元気そうじゃないか」
 そう言いながら近づいてきて、顎に手をかけようとしたので、咄嗟に顔を背けた。反射的にあいつは数発殴り返してきた。
「あれだけ念入りに説教してあげたのに、何一つ理解もできなければ、反省もできていないようだね」

 それでも思い切り睨み返してやると、あいつは小さくちっと舌を鳴らして、それから蹴りを入れてきた。二発目で姿勢が大きく崩れたところに、三発目が鳩尾のあたりにめり込んだ。苦痛のあまりのたうち回る。胃の内容物がこみ上げてくるが、口はテープで塞がれて行き場がない。呼吸は激しくなるが、空気の通り道は鼻孔ひとつだけ。体内にこもった熱でオーバーヒートし、両方の眼球が飛び出してしまいそうになった。
 あいつは傍らにしゃがみ、楽しげに「助けてほしいか?」と尋ねてくる。思わず頷くと、あいつはゆっくりと、焦らすように口を塞いでいるテープを剥がしにかかった。

 口が解放されると、嘔吐と咳と酸素の補給を同時に行おうとして失敗し、ますます苦しくなった。しばらくしてようやく楽になってくると、自然と言葉が漏れた。
「助けて、助けて、蓮――」
 たちまちあいつに髪の毛を鷲掴みにされて、無理やり上体を引き起こされ、平手打ちを数発食らった。

「いいか、そいつの名を口にするな。助けを求めたいのなら、僕に求めろ。僕にお願いするんだ」
 それでも口は言葉を失わない。小さいがはっきりと、同じ言葉を繰り返した。
「蓮、助けて」
「うるさい、ミーナって呼べ!」

 また激しい暴行が始まった。それはあいつの体力が尽きるまで続いた。途中から、あまり痛みを感じなくなった。あいつの怒鳴り声も、殴られる音もなんとなく遠くに聞こえるようだった。顔が腫れて瞼も開かず、よく見えない。

「何だ、何を握っている?」
 暴風のような暴力がようやく鎮まると、肩で息をしながら、あいつは言った。何も反応しないでいると、力ずくで奪い取られた。
「御守り? 安産祈願? 何だこれ?」
「返して・・・・」
 あいつの怪訝そうな顔が、少しずつ狂気にとって代わろうしていた。

「お前――子供が欲しいのかな? 僕の」
「ちがう、ちがう、そんなんじゃない! 返して」
「だったら初めから欲しいって言えばいいのに」
「ちがう、やめて」

 乗っかってこようとする相手に思い切り蹴りを入れた。自分でも驚くほど、力が出た。蹴りは膝に当たり、がくっとバランスを崩して転倒した。その際壁に打ち付けたらしく、あいつはしばらく頭を抱えて、唸り声をあげながらその場にうずくまった。

 逃げたい、逃げなければ。
 今なら部屋の扉も開いている。口のテープも外されている。手足は縛られたままだけど、なんとか玄関まで行って、大声で助けを求めれば誰かが聞いてくれるかもしれない。

 這いずって部屋から出ようとしたとき、後ろから髪を掴まれ、強引に引き戻された。目の前にあいつの顔があった。左手で側頭部を押さえ、右目だけが大きく開いている。その充血した眼の異常なまでの赤さに、なぜか一瞬見とれてしまったような気がした。

 次の瞬間、何か冷たいものが自分に触れる感触があった。そして次に熱い感触があった。そして次に、その熱いところのまわりには、ぬるい感触があった。
 耳元で、あいつが何か喋っている。

「まったく、なんて愚かなんだ、この低能め。僕はお前のことをこんなに心配しているのに、どうして解らないんだ。今までだって何度も助けているのに、なぜそのことに気づかない。つくづくバカっていう生き物は始末が悪い。もっと勉強しろ、もっと賢くなれ、何が大事か理解できるようになれ、そしてもっと感謝しろ。
 ちょっとしたドジ程度なら、御愛嬌で許してあげる。修正してあげるのは、愛する者の使命だから。でもお前は限度を超えた。あんな、ただ若いだけのノータリン男を連れ込んだ。いいか、お前は一番やってはいけないことをやってしまったんだ。つまり、お前はもうお前ではない。僕はお前を認めない。お前はお前ではない。お前の姿をした、ただの皮袋だ。お前は本物のお前と交代しなければいけない。
 大丈夫、本物がいれば、お前はもう必要ない。お前がいなくたって、誰も困らないし気にもかけない。その証拠にほら、この数日の間、例のノータリン男はおろか、誰からも連絡一つ来ないじゃないか。もう忘れられちゃってるんだよ。お前なんかいてもいなくても同じ――いや、いてもいないのと同じなんだよ。それが分不相応にもくだらない夢なんか見ちゃってモデルとか目指したりして、呆れるくらい滑稽だな。そんなものは無意味で無駄だ。
 でも心配ないよ、無意味で無駄だということをきっちり認めるなら、僕がお前を本物にしてあげる。大丈夫だよ、だってお前のことを一番よく知っているのは僕だもの。お前が何をして、何を考えて、何を感じて、何を好きになるか、全部知っている。僕だけが本物のお前を知っているんだ。
 承知してくれるなら、今すぐにでも証拠をみせてあげる。なに、遠慮はいらないよ。承知してくれるなら、ここの家賃だって水光熱費だって僕が立て替えてあげるよ。なに、このくらい平気さ。気にしなくていいよ」

     *

(第二話につづく)

※連載再開しました。新年早々どんよりしていてすみません><


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